› カムイブレインスコンサルタント㈱~情報発信ブログKamulog(カムログ)~ › 社長歴史コラム2012年04月06日
国の滅亡を功臣が救う
会社が安定した業績を上げているときに、幹部の中でトップに諂い「私は最後まで社長についていきます」と言っていた人が業績が下がり危機が迫ると真っ先に逃げ出し、一方、日常からトップに苦言を呈していた人がむしろその危機に立ち向かっていくようなことを聞きます。トップも人間ですので、順調な時に多少のはめをはずしてもちやほやしてくれたり、肯定してくれたりする人の方が好きであることが明白です。苦言を呈するような気骨ある人は、煙たい存在であり、周りから遠ざけたいものです。しかし、歴史を紐解くと苦言を聴き、自らを改めるトップが君臨しているときは、国が発展し、能臣も集まってきます。漢を打ち立てた劉邦なども良い例で、ブレインである張良や陳平などの提言を採用して天下を統一しました。その逆に、あまりにも独善的で臣下の言うことを聴かず、滅亡した国は枚挙に遑がありません。しかし、その中で今回紹介する申包胥(しん ほうしょ)や田単(でんたん)は滅亡寸前の国をほぼ単独で救った方々です。
最初に、申包胥ついてお話します。申包胥は紀元前500年頃の楚の国の幹部でした。この方を知っている方はほとんどないと思いますが、相手側(楚の国を攻めた呉)には孫武(孫子の兵法の創始者)がいたので時折話を聞くかもしれませんね。ことの発端は、奸臣の甘言で道をあやまりつつある楚の平王に、忠臣が苦言を呈したところ、粛正されてしまいました。奸臣から見ると自分の地位を更に高め、ライバルを蹴落とすため讒言してその忠臣を排除したのです。その粛正された忠臣の子供に伍子胥(ごししょ)がおり、父と兄の復讐をはたすべく、呉に亡命しました。楚を出るときに申包胥と出くわし、申包胥は伍子胥に同情していたため、手配されていた彼を捕らえることなく逃がしたと言われています。その時に、伍子胥は「必ず楚を滅ぼす」と、申包胥は「必ず楚を救う」と言い交わしたと言われています。その場面で交わすような言葉ではなく、後生がいかにも書いたことが分かりますね。その後、伍子胥は呉の宰相になって孫武を大将軍として招くなど、富国強兵に努めました。呉に比べると楚は大国であり、攻め入るにも簡単なことではありませんでした。楚では、平王が薨じて昭王の時代になっていましたが、相変わらず内部抗争があって国力はますます低下していました。そして機会が生じたことから伍子胥の長年の願望である楚の討伐に向けて軍を侵攻させ、短期間で楚の国の首都を陥落させました。孫武の名前が世に広がった出来事でもあります。
その状況下で申包胥は、昭王の母の生国である秦に援軍の要請に向かいましたが、秦は出兵を渋りなかなかその要請に応えようとしませんでした。申包胥は、王宮の前で7日7晩声がかれるまで哀訴し続けたと言われています。秦もこのような功臣がいるのなら楚は滅亡しないとの考えで出兵し、呉の内情もあって楚は国土を回復しました。申包胥のすばらしいのは、その功績を誇らず、楚の昭王からの大官就任要請も辞退しました。私欲のない賢人だったのですね。
次に、田単についてですが、彼は紀元前280年頃斉の下級役人でした。斉という国は、元々は有名な太公望(姜氏)が領土を与えられ興した国でしたが、斉という国名は同じながら途中田氏に取って代わられました。田単は、王族と何らか血縁関係があったのでしょうね。「隗より始めよ」で書いたように燕から支援要請に乗じて、斉が燕を侵略しました。その恨みをはらすべく、燕は天才的な軍略家の楽毅など人財を集めて報復の機会を狙っていました。そして、楽毅を将軍として他の5カ国も巻き込んで連合軍を組み、斉を打ち破りました。斉には七十以上の城がある大国でしたが、楽毅に次々と落とされ、2つの城のみが抵抗を続けるだけとなりました。その一つが即墨(そぼく)で、その城を守備した将軍が田単でした。燕の内情もあって城を守り抜き、楽毅が更迭されたことにより斉は息を吹き返しました。前にも書いたように木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで行った火牛の計は、はるか昔に田単が実施したものです。
このように人財がいる組織は、簡単には崩壊しないものです。良い時から人財を集め、その能力を発揮していただくように心掛けている企業は発展します。近頃、読んだ火坂雅志氏編の「武将の言葉」にあった徳川家康の言葉で締めくくりたいと思います。
「器物は何ほどの名物にても、肝要の時に用に立たず、宝の中の宝といふは人にて留めたり」
最初に、申包胥ついてお話します。申包胥は紀元前500年頃の楚の国の幹部でした。この方を知っている方はほとんどないと思いますが、相手側(楚の国を攻めた呉)には孫武(孫子の兵法の創始者)がいたので時折話を聞くかもしれませんね。ことの発端は、奸臣の甘言で道をあやまりつつある楚の平王に、忠臣が苦言を呈したところ、粛正されてしまいました。奸臣から見ると自分の地位を更に高め、ライバルを蹴落とすため讒言してその忠臣を排除したのです。その粛正された忠臣の子供に伍子胥(ごししょ)がおり、父と兄の復讐をはたすべく、呉に亡命しました。楚を出るときに申包胥と出くわし、申包胥は伍子胥に同情していたため、手配されていた彼を捕らえることなく逃がしたと言われています。その時に、伍子胥は「必ず楚を滅ぼす」と、申包胥は「必ず楚を救う」と言い交わしたと言われています。その場面で交わすような言葉ではなく、後生がいかにも書いたことが分かりますね。その後、伍子胥は呉の宰相になって孫武を大将軍として招くなど、富国強兵に努めました。呉に比べると楚は大国であり、攻め入るにも簡単なことではありませんでした。楚では、平王が薨じて昭王の時代になっていましたが、相変わらず内部抗争があって国力はますます低下していました。そして機会が生じたことから伍子胥の長年の願望である楚の討伐に向けて軍を侵攻させ、短期間で楚の国の首都を陥落させました。孫武の名前が世に広がった出来事でもあります。
その状況下で申包胥は、昭王の母の生国である秦に援軍の要請に向かいましたが、秦は出兵を渋りなかなかその要請に応えようとしませんでした。申包胥は、王宮の前で7日7晩声がかれるまで哀訴し続けたと言われています。秦もこのような功臣がいるのなら楚は滅亡しないとの考えで出兵し、呉の内情もあって楚は国土を回復しました。申包胥のすばらしいのは、その功績を誇らず、楚の昭王からの大官就任要請も辞退しました。私欲のない賢人だったのですね。
次に、田単についてですが、彼は紀元前280年頃斉の下級役人でした。斉という国は、元々は有名な太公望(姜氏)が領土を与えられ興した国でしたが、斉という国名は同じながら途中田氏に取って代わられました。田単は、王族と何らか血縁関係があったのでしょうね。「隗より始めよ」で書いたように燕から支援要請に乗じて、斉が燕を侵略しました。その恨みをはらすべく、燕は天才的な軍略家の楽毅など人財を集めて報復の機会を狙っていました。そして、楽毅を将軍として他の5カ国も巻き込んで連合軍を組み、斉を打ち破りました。斉には七十以上の城がある大国でしたが、楽毅に次々と落とされ、2つの城のみが抵抗を続けるだけとなりました。その一つが即墨(そぼく)で、その城を守備した将軍が田単でした。燕の内情もあって城を守り抜き、楽毅が更迭されたことにより斉は息を吹き返しました。前にも書いたように木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで行った火牛の計は、はるか昔に田単が実施したものです。
このように人財がいる組織は、簡単には崩壊しないものです。良い時から人財を集め、その能力を発揮していただくように心掛けている企業は発展します。近頃、読んだ火坂雅志氏編の「武将の言葉」にあった徳川家康の言葉で締めくくりたいと思います。
「器物は何ほどの名物にても、肝要の時に用に立たず、宝の中の宝といふは人にて留めたり」
2012年03月01日
真田幸村
真田幸村真田幸村は大変有名な武将ですが、本名は真田繁信なのです。江戸時代に演劇か物語で幸村と呼ばれたことからその名前が通称使われるようになりました。作者は、徳川幕府にはばかったのでしょうね。
真田氏の中では、彼が一番知られていますが、おじいさんの幸隆、お父さんの昌幸、お兄さんの信幸の方が実績的にははるかに上です。
真田幸隆は、武田氏や村上氏などによって領土を奪われましたが、のちに武田信玄に使えて領土を回復し、信州や上野侵攻の先手になって活躍しました。先手といっても調略に極めて秀でた知将であったと言われています。
真田昌幸は、従属する先をころころと変え、信のおけない人物と受け止められがちですが、そうではないと私は思っています。武田氏が滅亡寸前の時、武田勝頼に自分の城にくるように言ったといわれています。天下の織田信長を相手にするわけですので、これは大変勇気のいることでしょうし、どのような策を秘めていたのかは歴史のミステリーです。結局、武田勝頼は、小山田信茂の岩殿山城に向かい、小山田信茂に裏切られて天目山で自害しました。
武田家滅亡から1年ほどあとに今度は織田信長が暗殺され、信州は徳川氏と北条氏によって侵略され、北に上杉家、南に徳川家、東に北条家と3つの強国に囲まれることになり、真田家を取り巻く環境は非常に不安定になります。この局面で真田家を維持しながらできるだけ優位な立場で泳ぎ渡るのですから、知謀・謀略の限りを使う必要があったのです。結局、真田昌幸は、徳川氏に従属するわけですが、徳川氏と北条氏の領土の線引きが不確定で、北条氏の信州の領地と徳川氏の上野での領地と交換することになりました。その徳川氏の上野とは、真田の沼田城だったのです。真田には沼田に変わる領地も示されなかったことから徳川氏と争いが生じ、単独では勝ち目がないので上杉景勝に幸村を人質として送り、後援を要請しました。真田昌幸の籠城戦は極めて巧みで、徳川氏に大きな損傷を与え、勝利しています。その後、豊臣秀吉が勢力を伸ばし、真田家は豊臣家に従属することになりました。幸村も上杉家代わり豊臣家へ人質として行ったわけです。
豊臣秀吉が北条攻めのきっかけとしたのが、真田氏の名胡桃城を猪俣邦憲が奪取したことでした。これは豊臣秀吉と真田昌幸の密約のもとわざと攻めさせたと言われています。北条氏にとっては大きな買い物になってしまったわけです。
そして、真田昌幸を有名にさせたのが徳川秀忠を上田城に足止めさせ、関ヶ原の戦いに遅延させたことでしょうね。
小山の陣で、真田昌幸と幸村は西軍に、幸村の兄である信幸は徳川方につきました。よく両側に分かれて家を存続させると言われますが、昌幸と信幸の場合、それぞれの思惑が異なったのだと思います。昌幸は戦乱期を生きてきており、信幸はそろそろ安定する時期に生き、このようなところから価値観が異なったのだと思います。西軍が勝利すれば、昌幸は領土の切り取り放題で大大名に躍進したでしょう。このような人物は九州にもいました。黒田如水その人です。兵を集めて西軍方の領土を次々に侵略し、北九州のかなりを押さえました。息子である黒田長政は福島正則等の豊臣縁故武将を徳川方に引き入れた功績から、関ヶ原の戦い後に家康に握手されたと言われていました。それを黒田如水に言ったところ、「右手は何をしていたのか」と問われたようです。黒田如水の思惑はその右手で家康をなぜ刺さなかったのかという恐ろしいものです。家康亡き者としてしまえば、九州を制圧し、その勢いで近畿に進出しようとしていたのですね。どこか真田昌幸と似ているような気がします。
徳川秀忠を引き留めた籠城戦と関ヶ原、真田家は2度も徳川に苦汁を飲ませています。このような経験が大阪の陣で大活躍した幸村の糧になったのでしょうね。
さて、真田幸村の名を天下にとどろかせたのが大阪の陣ですが、なぜ大阪城に入城したのでしょうか。もちろん、豊臣家への義理があったと思いますが、それ以上に武将として一花咲かせることだったと思います。多分、動機はこのあたりですが、それ以外に私なりに空想してみました。それは、真田武勇を見せつけることにより、兄の真田家を守ることです。昌幸が、2度徳川に苦汁を飲ませ、更に幸村が武勇を示せば、徳川家も安易に真田家を取りつぶさないのではないでしょうか。死を覚悟した者の徹底抗戦ほど恐ろしいものはありません。
日本国憲法に武力行使を禁じたのは太平洋戦争中の徹底抗戦にアメリカが恐ろしさを感じたためも言われています。地域が異なっているので一概には言えませんが、ドイツの憲法では武力行使を禁じていないようです。少し論理矛盾を起こすような気がしますが、別の動機があれば小説にかけるような気がします。
2012年01月24日
業が成長すれば幹部に求められる能力が変わる

企業が成長すれば
幹部に求められる能力が変わる
成長している企業を訪問すると次のようなことを感じることがあります。その規模にふさわしい、或いは次のステップに進めるだけの人財が揃っており、この先もたのもしい企業であるなと感じること。また、反対に規模の割には人財が揃っておらず、社長の才覚で成長してきたのだなと感じる企業もあります。前者の企業では、規模の拡大とともにそれに見合う能力のある方を中途採用で獲得している場合がしばしばです。一方、後者はたたき上げの方がほとんどを占めているか、中途採用にしても前例に習った要件で採用している場合がほとんどです。この場合、社長と幹部社員の隔たりが大きくなり、それを社長が大いに不満がっていたり、社長のワンマンぶりが目立って空回りしたりするものです。よく会社の規模が30人、100人、300人、1000人と成長するに従って仕組みを変革する必要があるといわれています。人財も同じで、企業の成長過程で求められる要件が変わってくるのです。
中国の春秋時代に貴重な例があります。春秋時代に最初に覇者となったのが、斉の桓公(かんこう)ですが、この方は即位するまでに大変苦労しています。兄の襄公(じょうこう)は異常な性格で、桓公はその危害を恐れて莒(きょ)へ逃避しました。それを支えたのが鮑叔(ほうしゅく)でした。また、もう一人の兄である公子糾(こうしきょう)も襄公を恐れて魯の国に逃避し、彼を支えたのが管仲(かんちゅう)でした。鮑叔と管仲は親友で、のちに管鮑の交わりと言われたほどです。襄公が公孫無知(こうそんむち)に暗殺され、公孫無知が即位するとその公孫無知も暗殺されました。こうなると桓公と公子糾は早く斉に入って即位しなければなりません。兄弟は熾烈なライバル関係になったわけです。そして、桓公を暗殺すべく、管仲が行動を起こしますが失敗に終わります。そして、桓公が先に即位を果たし、公子糾は魯に亡命したのです。その後桓公は、公子糾を倒すべく、魯に攻め入りました。桓公は自分を暗殺しようとした管仲も処刑しようとしていたわけですが、これを止めたのが鮑叔でした。「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と鮑叔に言われた桓公が、管仲を魯から引き取り宰相としました。その期待に応えて管仲は富国強兵に務め(特に、塩田開発などの産業振興に長けていた)、桓公を春秋時代最初の覇者としたのです。
たたき上げの方を大事にすることも大切ですが、企業の成長やそのスピードにより、幹部となる人財を求めることも必要です。ある程度の規模を任された幹部がその組織をうまく運用できなければ、その組織が非効率になるだけでなく、その下に働く部下のモチベーションも低下させてしまいます。それは未来にも影響を与えるため、どれくらいの損失になるかは検討もつきません。現状に安住せず、常に良い人財を求める或いは育成する気持ちを忘れないで頂きたいと思います。
カムイブレインスコンサルタント㈱
代表取締役 藤田 浩嗣
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2012年01月05日
平清盛
平清盛(たいらのきよもり)今年の大河ドラマは「平清盛」である。少し前に池宮彰一郎氏の「平家」を読んだが一般的な「平家物語」とはかなり異なる清盛の描き方になっていた。通説では、スターウォーズのダースベーダーのような悪の権化的な記述になっているが、今回の大河ドラマでは時代を変革した風雲児的な存在として扱われるようで楽しみにしている。
このあたりの歴史を詳しく知っているわけではないので私見が多く含まれてしまうと思うが、清盛は北面の武士から相国までなった英傑と言える。一代で頂上まで登り詰め、しかも短命な政権だったところは豊臣秀吉に似通っているのではないかと思う。しかし、清盛はヒールに描かれ、秀吉は英雄に祭り上げられるのはなぜか?清盛が平治の乱で破れた源義朝の子頼朝や義経を助命したのに対し、豊臣秀次を切腹に追いやり、その妻子すべてを殺害した秀吉の方がはるかに残虐であるように思う。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
と栄華を誇った藤原氏が衰退し始め、シビリアンコントロール力が低下し、武家の力が台頭してきた。それまでの荘園を基盤とした経済も陰りを見せ、国司が地方を統治する体制にも歪みが生じていた。経済的にも体制的にも硬直化していたその中で、清盛は日宋貿易の活発化を図って経済状況を変革するビジョンを持ち、精力的かつ果敢に旧体制と争って政権を握ったのである。彼が長生きしたらダイナミックな日本になったかもしれない。しかしながら、彼の戦いはトーナメント方式であり、一回敗れたらそれでおしまいという過酷なものだったと思う。満ち溢れる活力はビジョン実現よりも戦いに削がれ、その激烈さは彼から多くの時間を奪ったものと感じられる。
話を元に戻すと、平清盛がその後の武家支配のきっかけになったことが朝廷側から見ると悪臣であり、あっけない最後は仏教的な考えである因果がめぐるという戒めから、悪評に繋がったのではないかと思う。
特に、貿易のインフラを整えるために荘園収入を横領し、後鳥羽上皇と確執を起こし、幽閉したことが大きな要因であったように思う。この頃は、清盛の絶頂期に当たり、歴史を眺めてみると絶頂期に行ったことが衰退をまねく事由になっている。秀吉の朝鮮出兵もしかりである。
明治天皇が歌われた「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を咀嚼し、歴史を学ぶものとして私も良いときほど謙虚な姿勢を保ちたいと思っている。
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代表取締役 藤田 浩嗣
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2011年11月14日
機能美
機能美
20世紀の科学技術の発展はめざましいものであったと感じます。戦争は人類の最大悪の一つだと承知していますが、特に兵器の進化はすごいものです。2011年末の『坂の上の雲』でも放映されますが、日清戦争における黄海開戦では、距離が3,000mくらいにならないとなかなか砲弾が命中しない状況でした。しかし、たった10年ちょっとの年月後に行われた日露戦争における日本海海戦では、ロシア艦隊からの初弾は8,000mから発射されています。10年間で軍艦の性能は飛躍的に向上しました。その後もイギリスでドットレート型(ド級戦艦というのはドットレートからきている)の戦艦が開発されるなど性能向上は著しく、第一次世界大戦で戦艦の性能は概ね完成形となっています。第一次世界大戦以降は、2次元的な戦いから空を含めた3次元的な戦いに移行し、飛行機の開発競争が激化しました。特に、第2次世界大戦中における飛行機の進歩はすごいもので、大戦初期のイギリス海軍の雷撃機は複葉機を使用していましたが、大戦末期にはジェット機やロケット機が登場するに至っています。
話は、変わりますが第2次世界大戦中の飛行機を見て感じたことがあります。性能が高い飛行機は美しいということです。例えば、日本のゼロ戦、烈風、イギリスのスピットファイヤー、ドイツのフォッケンウルフFW190、アメリカのムスタング、F6F(ずんぐりむっくりはじめは美しいと感じませんでしたが、よくよく見るとなかなかのものです)などは、それぞれの国を代表する戦闘機であり、性能も高い飛行機です。何を読んだか忘れましたが、その本にも「性能の高いものは美しい」と同じことが書かれており、そのように感じることは自分だけでないと認識しました。
さて、日本の代表的な産業である自動車ですが、世界的にも環境技術に優れ、業界をリードしていますが、近頃少し心配していることがあります。デザイン的にあまり魅力を感じる車が少ないことです。一方、見て「美しい」あるいは「かわいい」と感じた車は、メルセデス・ベンツCLS、フィアット500(チンクエチェント)、アウディA5、プジョーRCZであり、そのすべてがヨーロッパの車なのです。ヨーロッパ車は、デザインをかなり重視しているのではないかと思います。
どこか画一的な日本車のデザインに今の若者の車離れの一因があるのかもしれません。少し冒険してでもわくわくさせるような本当に魅力的な車を造って頂きたいものです。
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2011年10月31日
優秀人材のスカウト方法☆「隗(かい)より始めよ」
優秀人材のスカウト方法☆郭隗(かくかい)の
「隗(かい)より始めよ」
中国の戦国時代に現在の北京周辺を納めていた燕という国がありました。
燕といえば、始皇帝暗殺に失敗した荊軻(けいか)で有名ですが、その他には逸話が少なく戦国七国の中で一番地味だと感じます。
「魁(かい)より始めよ」の時の王様は昭王でした。先代の王の時代、燕の国は乱れ、援助を頼んだ隣国の斉にどさくさ紛れに国土を奪われてしまいます。昭王は、斉に復讐するために国を立て直し、強化した名君です。
昔も今も、国を強くするためには人財を集める必要があります。これは企業にも言えることですね。
昭王は、優秀な人財を集めるために家臣の郭隗(かくかい)にアドバイスを求めました。
中国の説法は例え話から本題に入るのが常で、この時郭隗がした例え話は有名です。私にとっては、高校の時漢文で習った思い出があり、とても懐かしい一説です。
「死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん。」
(死んだ馬すら買うものがいるという評判がたてば、生きている馬なら当然買うのであるから売りに来るものが集まる。という意味です。)
郭隗が言いたかったのは、「私のような者でも大切にされていることが世間に伝われば、もっと優秀な人財が集まるでしょう。まず、私から厚遇してはいかがでしょうか。」ということです。日本では図々しいと思われるでしょう。
実際には、郭隗は燕の富国強兵に貢献したかなり優秀な方です。昭王はそのアドバイス通り郭隗を厚遇しました。
するとその後、軍略家として有名な楽毅(がっき)が家臣となり、各国連合軍の総大将として斉征伐に向かい、強国の斉をあと一歩のところまで追い詰めるのです。
企業において、優秀な人財を採用すれば問題のすべてが解決すると考えるのは無い物ねだりに他なりません。結局は、その優秀な方を活かしきれない、あるいは権限を与えないなどからうまくいかなくなるでしょう。まずは、この故事にあるように、今いる人を大切にする「人、大切の経営」をしていくことが先決なのだと思います。
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【「隗より始めよ」故事解説】
燕王となった昭王は、家臣の郭隗に尋ねました。
「天下の賢者を招き、国政を委ねて、斉に被った恥をすすぐにはどうしたら良いだろうか。」
郭隗は答えました。
「私は、次のような話を聞いたことがあります。
昔、ある君公が千金をもって、一日に千里を走る馬、いわゆる千里の馬を手に入れたいと求めました。しかし、3年経っても手に入れることが出来ません。
すると、宮中の小間使いが、『私が行きましょう』と言って、探しに出ました。彼は、3ヶ月後に千里の馬を見つけましたが、すでにその馬は死んでいました。しかし、彼はその死んだ馬の首を五百金で買って帰り、君主に報告しました。
君主はカンカンに怒り、『私が欲しかったのは、生きている馬だ。どうして死んだ馬に五百金も払って来たのだ。』と言いました。
小間使いは、動じずに、『死んだ馬ですら五百金で買ったのです。生きている馬なら、いったいいくらで買うのだろうと思うでしょう。千里の馬はたちどころにやって来るでしょう。』
果たして、1年も経たないうちに千里の馬が3頭ももたらされた、
ということです。」
王がもし、優れた人物を招聘したいとお望みであれば、まず、この私、郭隗よりお始め下さい。(先づ隗より始めよ)
私のような者でも取り立てられるとすれば、私より優れた人物はなおさらだと思うでしょう。きっと、千里の道を厭わずにやって来るに違いありません。
そこで、昭王は、郭隗のために宮殿を築いて、彼を師と仰ぎました。すると、趙の名将である楽毅(がっき)や陰陽説の祖である趨衍(すうえん)などが、ぞくぞくと集まり、国政に努めること28年、ついに斉を破って滅亡寸前まで追いつめたのでした。
『みらいぽーと―歴史の旅路― http://www.d2.dion.ne.jp/~nob_o/ 』より
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2011年09月27日
柔軟性と環境適応力 坂本 龍馬

柔軟性と環境適応力
坂本 龍馬(さかもとりょうま)
経営と生物の進化には共通点が多くあります。
今は、人間をはじめとするほ乳類が栄えていますが、その昔は恐竜たちの全盛時代がありました。2億年前、恐竜が栄える一方でほ乳類がそれほど目立たなかった理由は、当時の地球環境にあったようです。恐竜が出現した三畳紀は現在に比べ低酸素な環境でしたが、その末期から、ジュラ紀、白亜紀にかけて酸素濃度は上昇していきます。恐竜たちは特有の代謝機能によりほ乳類よりも先に当時の環境に適応したようです。
経営にも30年周期説があり、経営環境が変化していくなかで30年以上にわたって全盛を維持する業種はほとんどありません。大切なことは環境に適応していくことだといえます。
「環境に適応する」とさらりと述べましたが、なかなか簡単にはいきません。今回は、歴史上ほんとうに柔軟な環境適応をみせた人物である坂本龍馬について話したいと思います。
すでに結論になってしまいましたが、私が感じる坂本龍馬の優れた特質は、柔軟に思考の枠組みを変えていけることだったと思います。今まで知らなかったことを学んだとたん、今まで固執していた考えを取り払い、新しい枠組みを構築していける柔軟性があった方だと思います。
野田総理が引用した「正心誠意」を述べたのは勝海舟(かつかいしゅう)です。当時尊皇攘夷思想だった龍馬は、勝を暗殺しに行った先で、勝の話を聞いて開国の必要性を認識し、弟子にまでなってしまうのです。
<勝海舟と坂本龍馬のやりとり>
海舟:俺を殺しにきたのか。まあ、話を聞け。
(地球儀を片手に)ここがイギリスでここがロシアだ。
龍馬:(驚いて)本町筋はどこですか。
海舟:なんだって?
龍馬:わたしが生まれた土佐の町です。
海舟:(地球儀を差しながら)そんな町はしらないが、これが日本で土佐はここだ。
龍馬:わたしが知っていた世界は狭かった。弟子にしてください。
また、友人に会ったときの逸話もおもしろいですね。友人が長い刀を差していると、「今は長い刀は必要ない、屋内で襲われたときに長いことが邪魔になる」と忠告しました。次に会ったとき、友人が短い刀を見せると「今はピストル」だとそれを見せ、さらに次に会ったときには、万国法を見せたとのことです。
もし、坂本龍馬が暗殺されずにいて、政界に力があるようだったら、日本の民主化はもう少し早く実現されたような気がします。しかし、政治にはあまり興味を示さず、ここでも日本という枠組みから脱却して世界を飛び回っていたのではないかという気もします。
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2011年09月02日
泣いて馬謖を斬る

泣いて馬謖を斬る
三国志の時代、その影響力から言えば本来は曹操が主人公と言えるのですが、後生の判官贔屓で諸葛孔明が一番有名ですね。「天下三分の計」、「赤壁の戦い」での風を吹かせたことは曹操の敗走ルートをすべて見通して諸将を配置するなど、天文・政治・政略・戦術・治世・法律などすべてに卓越したスーパーマンに描かれています。特に、曹操の敗走における逸話はおもしろいですね。張飛に「昼頃に炊煙が上がったら攻撃せよ。」、関羽に「2つのルートのうち待ち構えるルート側に煙を上げよ。そうすれば曹操が裏読みしてそちらのルートを取る」。そして関羽は曹操に恩義を返すため、手出ししないこともあらかじめ予想しているなど、千里眼を発揮しています。話にはいろいろと矛盾があるもので、このような千里眼があれば関羽が呉と魏に攻められたとき、あらかじめ打つ手があったように思います。三国志を読むと蜀の衰退は関羽の死から始まっていますから。
また、泣いて馬謖を斬ることとなった1回目の北伐の街亭の戦いにも馬謖を起用しなかったでしょう。(馬謖が孔明の指示を守らないのではないかという前振りはあるものの)北伐の侵攻ルートの取り方から見ても手堅さが先んじて名将とは言いづらい面があります。劣勢な軍であれば陽動作戦や奇襲などを使用する必要が孫子にも述べられていますが、どちらかというと負けない戦いぶりです。
戦いの結果、敗戦責任を取って自らは丞相を降り、馬謖に厳罰を与えていることから法家つまり内政家であったことが窺えます。
世間で同族企業を同族だからと言って批判する方がいますが、私はそうは思いません。お互いが協力し合って企業を発展させようとしている時は、ある面他人の集まりよりも強力な推進力を持ちます。しかし、泣いて馬謖を切れないようになると同族企業の悪さが出てくるのだと思います。
企業経営は失っているものが分かりにくいが、厳しい戦いです。社長には、泣いて馬謖を切る厳しさも備えるタフネスさがいるものですね。
カムイブレインスコンサルタント㈱
代表取締役 藤田 浩嗣
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2011年08月19日
三方原の戦いの不思議

三方原の戦いの不思議
浜松城を足がかりにし、やがて天下を取った徳川家康最大の危機であった三方原の戦いの不思議について私の思うところを述べたいと思います。
三方原の戦いは、1572年武田氏の西上作戦により起きました。当時の武田氏は戦国大名最強といえる軍団を持っており、正面からぶつかり合ったらひとたまりもない相手でした。
しかし、武田氏の西上作戦も不思議なもので本当に上京を目指したようにも思えません。上京するなら一部隊を徳川氏牽制のため遠江北部に進入させ、本隊は中山道(その時代はなかったと思いますが)を直進して美濃を侵略したと思われます。武田信玄は領地確保の野望が強く、非常に手堅いことから本当は徳川氏を包囲し、(浜松で本体にダメージを与え、三河を制圧して駿河と両面から圧力を掛ける)屈服させることが狙いであったように思われます。
話はそれましたが、いろんな小説を読んでも三方原の戦いでの徳川家康の陣立てがとても不思議なのです。武田信玄が魚鱗の陣で、徳川家康が鶴翼の陣で戦ったようですが、これが反対であれば納得できるのです。鶴翼の陣は包囲戦を狙っていますので、通常兵力が勝っている方が取る陣形です。徳川家康方は1万1千人、武田信玄2万7千人と言われているので相手の2分の1以下の兵力でした。
これにはいろんな説があるようですが、さいとうたかを氏が書いた『武田信玄』(SPコミックス)を読んで非常に納得できました。
武田信玄は、徳川家康が鶴翼の陣にするように進めていたように感じます。徳川家康としては、祝田の坂を武田軍が下っている最中に戦いを仕掛け、折り返してくる(道が細いので多くの兵がいっぺんには戻れない)武田方を包囲して勝利する作戦だったのでしょう。ところがこれが実は誘い水で徳川方が到着する前にすでに陣形を整え迎え撃ったから徳川方としてはたまりません。戦の前にすでに勝負がついていたわけです。
今日、企業でも戦略や戦術が極めて大切です。一騎当千型で一生懸命努力(努力は大切ですが)してもなかなか局面は打開できないものです。企業でも戦略的な発想ができる才能を持った人がいるのですが、実務上力を発揮していないケース(本人には実務ではおもしろみが足りないため)があり、なかなかこのような方を発掘できていないことがあります。
徳川家康がとても偉大だったのはこの敗戦から多くを学び、武田氏の戦法や滅亡時の人財を積極的に得たことです。井伊家で有名な“赤揃え(あかぞなえ)”は武田の精鋭部隊のまねです。私も失敗から多くを学びたいと思うところです。
余談:三方原の戦いで敗戦し、浜松城に逃げ帰った家康が開門して、明かりをこうこうと照らす空城の計を取ったようですが、諸葛孔明(しょかつこうめい)にも同様の記録があります。北伐(魏を伐つ)に失敗して退却したときに、孔明は城で悠々と琴を弾いており、それを見た敵方の司馬仲達(しばちゅうたつ)は何か策があるものと安易に攻めなかったようです。
秀吉の高松城の水攻めも、曹操(そうそう)が呂布(りょふ)を伐つとき取った作戦ですし、木曽義仲が倶梨伽羅峠(くりからとうげ)で用いた火牛の計も斉の田単(でんたん)が行っています。
過去に学ぶことは昔も今も多いといえますね。
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2011年08月05日
鶏鳴狗盗 一芸(才能)を活かす 戦国四君斉の孟嘗君

“鶏鳴狗盗 一芸(才能)を活かす”
戦国四君 斉の孟嘗君(もうしょうくん)
今から2300年ほど前の中国は戦国時代で、主に7つの国が争いを繰り広げていました。王様ではありませんが、その頃に活躍した戦国四君と呼ばれる人物がいました。
斉の孟嘗君(もうしょうくん)、
趙の平原君(へいげんくん)、
魏の信陵君(しんりょうくん)、
楚の春申君(しゅんしんくん)です。
「史記」にはそれぞれの活躍や逸話などが書かれています。私個人としては、斉の孟嘗君、魏の信陵君が好きで、今回は孟嘗君について触れたいと思います。
この頃の戦国四君など貴族には、食客と呼ばれる人を養う風習がありました。孟嘗君のもとには3千人の食客がいたと言われています。「白髪三千丈・・・」と李白(りはく)の誌にもあります(中国の歴史では誇張するきらいがありますので本当に3千人もいたかは分かりませんが)。食客は、参謀的なブレインとなったり、命を捨てて主人を守ったり、時として敵を暗殺するなど、養われた恩返しをするもので、当然、学問がある武芸に秀でている人を食客にするのですが、孟嘗君は一芸があれば積極的に受け容れていました。
「出る杭は打たれる」とは人間の性のなでしょうか?このころ、斉の王様が自分より人気の高い孟嘗君を疎ましく思い、一方で他国(このときは秦)はこのような人物を引き抜いて斉の力を削ごうと企んでいました。両者の思惑が一致して、孟嘗君は秦の宰相として招かれることになったのです。ところが、秦には趙から派遣された宰相がおり(とても複雑な関係ですね)、「孟嘗君は斉のために政治判断をする」と秦の昭襄王(しょうじょうおう)に告げ口したところ、昭襄王は孟嘗君の屋敷を包囲させ、幽閉していまいました。
孟嘗君は命が危うくなったので、取りなしを昭襄王の寵姫に頼みました。この寵姫は孟嘗君が持っている非常に珍しく高価な毛皮をねだったのですが、孟嘗君は秦に入国した際これを昭襄王に献上していました。そこで、盗みの達人である食客の一人を使い、その毛皮を盗み出して寵姫に差し上げたのです。
そのご、寵姫の取りなしで一旦は釈放されたのですが、いつまた命を狙われるか分かりませんので、孟嘗君は秦からの脱出を図ります。国境の函谷関まで来たとき門が閉まっており、秦の規則では鶏がなくまでは門を開けないことになっていました。そこでまた一芸に優れた食客が活躍するのです。物真似が得意な食客が鶏の鳴き声を真似(今で言う江戸屋猫八ですね)したところ、本物の鶏も鳴き出し、無事に門が開いて脱出に成功したわけです。「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)※」の故事はここからきています。
人には必ず才能があり、その活かせるフィールドがあるものです。部下の才能を見出し、活躍をする場を提供することがリーダーの大事な使命・仕事だと感じます。
※鶏鳴狗盗(けいめいくとう):小策を弄ろうする人や、くだらない技能をもつ人、つまらないことしかできない人のたとえ。また、つまらないことでも何かの役に立つことがあるたとえ。
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2011年07月22日
横から目線 呉起(ごき)の兵法
“横から目線”呉起(ごき)の兵法
日本女子サッカーがワールドカップで優勝しました!!
おめでとうございます☆
そして、日本サッカーの特長を目一杯表出した本当に良い試合をありがとう。
感動しました!!
翌日のテレビ放送で、佐々木監督のことを上から目線ではなく、横から目線の監督だと言っていました。とても良い表現で、実はこの「横から目線」がこれからの企業のマネジャーに必要なことだと思います。
横から目線でふっと思った人物がいます。
中国の戦国時代に呉起(ごき)という将軍がいました。中国の兵法書では『孫子』が最も有名ですが、この呉起の兵法をまとめた『呉子』も結構有名です。政略的・戦略的な孫子に比べると戦術的な要素が強くなっているのが特長です。
呉起は魏の将軍(のちに楚の宰相)で、70戦以上して一回も負けたことのない名将中の名将です。率いる軍勢は5万人(数値は誇張されているかもしれませんが)以下を自らが指揮できる範囲としていました。そして衣食住を兵とともにしたことで、有名な逸話が残っています。
「ある兵の傷口から膿を自分の口で吸い出してやり、この兵が母親にその感動を伝えたところ母親が嘆き悲しんだ。父親も同様にされ、命を投げ出して突撃し戦死してしまったからで、息子も同じことになると思ったからでした。」
いくら知謀・勇気に長けた将軍でも、一人では合戦に勝てません。部下やメンバーを大事にする呉起や佐々木監督のようにしなければ、大一番で力を発揮してくれないものです。つまり、普段からの部下を大切にする行為の積み重ねが大事なのです。
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2011年07月18日
国士無双 韓信
国士無双韓信(かんしん)
いかに有能な人でもその人ひとりで大成功を収めた人を知りません。私は、貴重な出会いによって影響、支援や協力を受け、はじめて大成できるものと信じています。
才能ある人財の発掘が大きく歴史を変えた事例として、私の知っているものには、劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛孔明(しょかつこうめい)、春秋時代の五覇最初の覇者である桓公(かんこう)と管仲(かんちゅう)などがあります。劉備玄徳と諸葛孔明の場合は、三顧の礼として有名ですね。今回は、劇的な人財発掘であった韓信について触れたいと思います。
韓信(かんしん)は、項羽と劉邦が覇権を争った楚漢戦争の時に大活躍した人物です。蕭何(しょうか)、張良(ちょうりょう)とともに漢建国の3功臣にも挙げられています。私見ですが、漢建国の最大の功労者は何といっても蕭何だと思っています。楚漢戦争における兵糧調達(今で言うロジスティック)を一手に引きうけ、劉邦(りゅうほう)が何度負けても後ろから支え続けた人財です。そして、韓信の才能を見抜き大将軍に推挙したのも蕭何でした。
韓信は楚の生まれで、始め項羽(こうう)軍に属していましたが、提言が認められず、劉邦方につきました。劉邦のところでも一兵卒や下級将校で重んじられておらず、脱走して捕まり、切られるところ処刑役が彼の言い分を聞いて、異能であることに気づき、蕭何に報告しました。蕭何も面接して韓信の才能を見抜き、役職に推挙したのですが、その役職では韓信は飽きたらず、再び脱走しました。それを知った蕭何が彼を追いかけて連れ帰り、最も彼の才能を発揮できる大将軍に推挙したのです。麻雀をご存じの方は知っていると思いますが、国士無双という役満があります。蕭何は劉邦に向かって韓信のことを国士無双であると断言したのです。韓信の活躍の一例として、(これは皆様も知っている言葉の語源となった)「背水の陣」をひいて趙軍を破っています。
このように、組織には眠った才能を持った人たちがいると思います。くもりない眼(もののけ姫で出てくる私が好きな言葉)でスターを誕生させて頂きたいと願います。
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2011年07月07日
治世の能臣 曹操孟徳
治世の能臣曹操孟徳(そうそうもうとく)
「治世の能臣、乱世の奸雄」または「清平の奸賊、乱世の英雄」は、三国志の英雄曹操(そうそう)を許劭(きょしょう)が評した言葉です。
同じ人物でありながら、ほぼ真反対の評であることが興味深いものです。三国志の場合、諸葛孔明を物語の主人公にしている関係で、判官贔屓の面も感じられますが、この言葉は当を得ていると私は思っています。
時勢や状況において求められる能力や才能は異なるものです。日本においては織田信長が旧体制を破壊し、新たな時代の先駆けになりました。時代が変わるとき旧来の方法を踏襲していたのではさまざまなしがらみで、結局はなにも変わらなくなってしまいます。武田信玄のように優れた武将・治世家であっても大きな渦を造りきれなかったのはこのようなしがらみのためでしょう。変化を起こす場合、まずは旧来のものを破壊していくことが第一ステップであることを時代が証明している気がします。曹操も漢朝から実権を奪い、旧来にない屯田制などいろんな改革を行っており、「治世の姦賊、乱世の英雄」と言われることにも頷けます。
企業においても創業期には伝説の人物(乱世の英雄)が表れるものです。そして、やがて安定期になるとやや人物が小粒になり、「治世の能臣」が好まれ、だんだんと前例主義的になって変革が滞るようになってきます。そして、人事をはじめとする制度が確立され、「治世の能臣」でなければ出世しないようになり、「乱世の英雄」的な人物は和を乱すという理由で排除される傾向が出てきます。業績が低迷するようになっても、安定期の制度が活きるため、なかなか必要な能力を持った人物が上に立てない状況になりがちです。
少し話がずれてきた感がありますが、組織が置かれている状況によって求められる能力は異なってくるもので、制度自体も制定したときはベストであっても状況に合わせないとやがて害を生じさせるものとなります。つまり、柔軟性のある組織運営が大事で、人物を客観的に観て、適所に配置することを常に心掛けて頂きたいのです。
カムイブレインスコンサルタント㈱は、中小企業診断士事務所からスタートしました。
現在でも、この原点に立ち、人材育成研修やISOコンサルティング、人材紹介を通して、クライアント様の利益向上・メンバーの活性化などお手伝いをしています。
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